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1997年8月中国・チベット感動一人旅③ [TRIP]

前の記事でnice!をはじめて頂きました。
全く面識のない方からどこかのウマの骨の私が評価を頂けるというのはとても不思議な感じです。
12月から始めたばかりで、blogの作法を全く知らない私にとって正直うれしいことでした。
ありがとうございました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ナム湖からラサに戻り、寺巡りをした。

家族を内乱で失った人や、今の体制に複雑な気持ちを持っている人の話も聞けた。
中華料理は見たくも食べたくないと言っている人もいた。

チベットは複雑な事情を抱えている。
チベットにはチベット人がもともと住んでいたが、漢民族がどんどん入ってきている。
ボタラ宮殿の前には人民広場があり、寺院には必ず中国国旗が立っている。

「一つの国」という難しさ。

いろいろな思いを胸に後ろ髪を引かれつつも、いよいよチベットを離れることになった。
最後まで、塩辛いバター茶の味に慣れることはなかったが。

空港の入国審査の荷物チェックで思い切りひっかっかった。
理由は、ナム湖の近くで拾ったチベット文字の入った石のせい(苦笑)
審査官からは「何でこんなもの持ち込むんだ?」と一瞬怪訝な顔をされたが、
こちらの貧乏そうないでたちを見て苦笑いで通してもらった。

( ↑ これが問題のその石。
いまだに解読できていません。というか文字の向きすらわからない。
解読できる方は是非ご一報を!)

ラサから飛行機で重慶に着いた。
重慶は、非常に煙に満ちており、光化学スモックのためかたちまち目が痛くなるほどだった。
また、雰囲気が重苦しかった。
とにかくこの街から早く出たいという感覚が働いた。

事前に重慶から長江下り(三峡下り)ができるという話を聞いていた。
長江はダムを建設する予定があり、河下りはできなくなるとも聞いていた。
これはもう河下りをするしかない。

チベットの宿で知りあった大学生(中国語を話せる)と、
飛行機で知りあった前年の夏にインドを1ヶ月旅行している大学生女の子二人組と、
船の四人部屋を共有し行動を共にすることになった。
皆さん出たトコ勝負の人々・・・

乗った船はボロかった。
せっかくクーラーがある部屋にしたのに完全に壊れているし。
トイレも汚かった。
食べ物もまずかった。
でも、楽しかった。

ちなみに女の子二人組から後日写真とお手紙が来た。

ちょっとばかり期待して封筒を切ると、その中身は・・・

A子さん「すごいトイレとシャワーでよく生活できたなーと、びっくりしてます。とはいえ、ラクだ君はぜんぜん平気そうだったけど。」
B子さん「何よりも、56度のお酒やビールなどをしこたま飲んでいたラクだ君のタフさにはただただ驚きました。」

・・・ロマンスのかけらもない内容・・・
揃いも揃って人を「変人」のように言うし。

・・・たしかに、船の中でやったことといえば、
昼間っからビールを水代わりに毎日飲んでいた。
だって、水より安いんだもん(大瓶で50円くらい)。
強烈な酒ビンを一人で空けたこともあった。
飲んでばかりいました。スミマセン。

他にも船の屋根の上に乗ったりして遊んでた。
本を読んでぼっとしていた。

長江は雄大だった。

本当に海のよう(ちなみに写真は小三峡)。
近くで見ると、めちゃ汚いけど。
プラスチック容器やらビール瓶やら全部長江に投げ捨てる船員や中国人客にびっくりした。
これだからこんなに汚れるんだ。

また、長江中流で途中船を降りて三国志ゆかりの寺院に行った。
そこで、僕が見たのは「悲しすぎる御馳走」だった。

通常観光客に出すのは、地元の人が考えるおもてなし。
地元人でも食べられないような御馳走である。
そうでないと売れないからだ。
しかし、売り子さんが売っていたのは、

パサパサのジャガイモと赤唐辛子のみの串焼き。

それしか売っていない。
・・・その土地の最高のご馳走がジャガイモと赤唐辛子の串焼き。
東京と変わらないほどのきらめきを持つ上海と、
ジャガイモと赤唐辛子の串焼きが最高のおもてなしの観光地のギャップ。
彼らもまた物質的な豊かさは得られるのだろうか。

また、長江の山の隅々にはここまで水に浸かるという太い白い線が引いてある。
その白い線の下に住居が点在している。
彼らは、近い将来追い出されるのだろう。

中国の抱える矛盾を感じつつ、河くだりをするらくだ。

強烈なオチが待っていた。
三峡は真夜中に通過した。
なぜなら、乗った船が観光船ではなかったのだ。
結果、ほとんど見られなかった。
何のために長江河下りをしたのか・・・ガーーン!

終点の武漢には深夜の2時くらいに着いた。
ここで他の人とは別れた。

また、完全な一人旅の再開だ。
「さて、宿屋をどうしようかなと。」

(1997年8月中国・チベット感動一人旅④に続く。)


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1997年8月中国・チベット感動一人旅② [TRIP]

僕がチベットで見たものは、果てしない草原と澄み切った空だった。
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チベットのラサの空港に着いたとき、その広々とした空間に心がウキウキした。
空気が軽く空が近い感じだ。
しかし、夕方には頭が痛い。
他の人も頭が痛いと言っている。

どうやら高山病だ。
何しろ、ラサが3650メートル。
富士山とほぼ同じ高さに飛行機でいきなり来たのだから。
聞いたところだと5000メートルで酸素は低地の半分だそうだ。
これでは無理ができない。
あまりの異国情緒に興奮が抑えられなかったが、
「落ち着け。そうじゃないと高山病になってしまう。」

事実、症状がひどい人はその日の夜には酸素を買っていた。
その時、チベットで一緒だった人は、みんな多かれ少なかれ高山病に悩まされていた。
チベットにいる4日間、ずっとホテルで横になっていた人もいたくらいだ。
僕は酸素を買わなかったが、
スプレー缶に酸素が入っている高級なものと普通のビニールに酸素を入れてもらう安いのがあった。

泊まるのは当然、ぼろ宿のドミトリーだ。
上を見ると布で出来た天井で、ネズミ君が走るとその部分がヘッコンで動いている。
「ネズミ君、ダッシュ!」

夜は8月だというのに一桁度だ。
長袖の服はレインコート一つだった僕は、両手にポリエステルのタオルを巻いて寝た。
それでも、寒い。
しかも、この気温で水シャワーのみは厳しい。
空気も薄くて寝付けない。
結構、これは大変かも。

数日はボタラ城に行ったり町を散策してちょっとずつ体を慣らした。
ボタラ城は荘厳で階段も恐ろしくきつい。
まさに10歩ごとに一休みじゃないとだめ。
こんなに酸素が薄いのはきついのか。

ラサの町はお経を唱えている人やマニ車という仏教具をぐるぐる回している人がたくさんおり神秘的だ。
(マニ車とは一回回すごとにお経を唱えているのと同じという便利な道具。)
お線香の煙とにおいが街中に立ち込めている。
物的に豊かだとは決して言えないが宗教の力が町を支えている。

一方でお寺の中にまで兵隊さんがいて国旗が建てられている。
ボタラ城のすぐ前の中央公園には毛沢東像が立っている。
ここはそういう意味でも微妙な問題を抱えている。
また、観光化も進んでおり「お金、お金」などと口走る人もいる。
幻想を抱えてはいけない。

僕にとって非常に幸運だったのはジープを共同で借りてナム湖に行く旅に
日本人バックパッカーグループから誘われたことだ。
ナム湖はラサから北にジープで10時間弱ほどで着く。
ジープが反転しそうになるような道なき道を進む。

途中の大草原で、チベット人たちがジープから500メートルくらいからじっとこちらを見ていた。
こちらから観ると、点にしか見えないが、彼らは視力が非常に良い(3.0~4.0)から、見えるのだろう。
しばらくすると、50メートルずつじりじり近づいてくる。
用心をしているが、非常に関心があるようだ。
結局、30メートル付近で泊まった。10歳前後の子供だ。
包装紙に入った飴玉をあげるジェスチャーをしたら、珍しそうにじっと飴玉を見る。
・・・食べ方がわからないらしい。
一つ食べて見せて、食べ方を教えた。
そしたら、まねをして食べた。
美味しかったらしく、本当にうれしそうな顔をした。
その顔から非常に素朴にうれしさが伝わってきて、こっちが感動してしまった。
10歳ではじめて飴玉の存在を知って食べたら、こんな顔をするんだと。
彼らは、このままこの大草原で生きていくのだろう。

とうとう、最高5000メートルまで登り、湖自体も4650メートルもの所にある。
休憩場所で、チベット文字の書いている石が落ちており、
荷物になるとはわかっていつつも思わず拾ってしまった。
なんて書いてあるのかちんぷんかんぷん。

景色がすごい。
どこまでも広がる草原。
手が届きそうなくらい果てしなく澄んだ青空。
南に雄大に広がるヒマラヤ山脈。

10時間かけてやっと目的のナム湖に着いた。
周りには本当に何もない。
さすがに相当つかれた。
湖を見つめながらずーっとぼっとしていた。

夜になった。
泊まるところは、ただのコンクリートの打ちっぱなしの窓もない建物であった。
壁にはヤク牛の肥料用の糞が打ち付けられている。
トイレもなく、するなら外で湖でも見ながらどうぞという感じである。
眠る場所は一人一畳にも遥かに届かない狭いスペースにぼろぼろの布団で寝る。

空気が薄いせいなのか、
寒いせいなのかか、
気持ちが高揚しているせいなのか、
まるで眠れない。
休まなきゃいけないと思い、とりあえず横になっていた。

窓のない部屋に20人もの人が眠っているのだが、寝息が普通じゃない。
三回くらい深呼吸して一回ちょっとはく。
人によってはずっと酸素を吸っている。
すごい音がこだまする。

「これはやばいんでない?」
外に出ようと思い、ひょっとして氷点下かもしれない寒い寒い外に出た。
サンダルでしかも長袖1枚ではあまりにきつかったけど。

そこで見た星空。

空から降ってきそうな星星。
天の川が雲状に広がっていて、本当に川のようだ。
流れ星が次々と通り過ぎる。
流れ星ってこんなに落ちているんだ。
宇宙が動いているような気がした。
ずっと眺めていたかった。

感動した。

そして、朝が来た。
結局ほとんど眠れなかった。
一人外に出ると、牧羊犬に囲まれヤク牛の群が日の出とともに朝日の出る方角へ一斉に走り出す。

一匹の犬がこちらをのぞき込む。
まるで着いてこいと言っているように。
僕もその方向につられてゆっくりと走り出した。
息を切らさないように、
犬もそれを見て同じペースで絶好のポジションである丘の中腹に連れていってくれた。

そこで見たものは、

広大な湖とその横に建てられた性器の形をした宗教的象徴のリンガ。
そしてゆっくりと顔をのぞかせる朝日。
遠吠えする犬。
光に向かって走るヤクの群。
あまりにもきれいで「写るんです!」一台しかカメラを持っていない自分を恨んだ。

感動した。



僕の旅のベストシーンです。

(1997年8月中国・チベット感動一人旅③に続く)


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1997年8月中国・チベット感動一人旅① [TRIP]

はじめての海外だったベトナムを越える一人旅をしたいというちょっとした夢は、
次の年の大学3年の夏、あっさり実現した。
この旅は、もしかしたら今までの人生で一番感動した旅かもしれない。

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前年のベトナムの経験から、「旅は予定を立てない方が面白い。」と思っていた。
そこで、成田-上海の往復チケットのみ確保して後は流れに乗っていくことにした。
20泊21日の予定。
「自分ひとりだから何とかなる。」

上海に着いた。
地球の歩き方に載っていた最安な古いホテルにとにもかくにも行って見ることにした。
すると、ドミトリー(多人数部屋)をあっさりと確保することが出来た。
「幸先いいぞ。」

上海は本当に都会だった。
高いビルが立ち並び、事前に思っていたよりずっと発展していた。
日本で言えば、東京タワーといったところのテレビ塔が長江下流の先に見え、夜景が映える。

中心部には、日本のジャスコがあり、安室奈美恵のYou're my sunshineを聴いて感動した。
「こんなところでも、TK(小室哲哉)か・・・」

公園では、気孔をしている集団あり。
さらに、なぜか後ろ歩きがはやっているらしく、何人もの人が後ろ歩きをしている。
「健康に良いのかな?」

そして、お約束だが、豫園を観光した。
やけどしながら、小龍包をたくさん食べた。安いし美味!

「さて、今度はどこに行こうかな。
三国志の蜀の都、成都に行って本場の麻婆豆腐でも食べるか。」
なんとなく、そう思った。

上海駅前は、職を求めて地方から来た人がごった返していた。
服が街の人に比べ汚れており、ぼろぼろの袋を抱えて見るからに危険な雰囲気だった。

電車のチケットも現地用の窓口では拒否をされ、外国人用の購入窓口をやっと見つけて何とか買えた。
「電車にも簡単に乗れないのか。」

今度の電車はケチらず、寝台車にした。
お金のかかる良い席とはどんなものか経験してみたかった。
布団が暖かく、クーラーが入っていて感動した。

中国人の老夫婦が同じ部屋だった。
息子夫婦のところに行くそうだ。
筆談をしてコミュニケーションをとった。
漢字って便利!!
「1997年に香港が中国に帰ってくる。次は台湾だ。」
ディープなこと言うのね・・・
お茶を淹れてくれたり、中国のことをいろいろ教えてくれたり、親切な方々だった。

成都は、まだまだ発展途中だった。
何しろ交差点では信号機の代わりに人が信号の役回りを四六時中している。
人件費のほうがコストが安いということだろうか。

成都の安宿の交通飯店は良いホテルだった。
ホテルそばのレストランは、生トマトが入ったチャーハンが美味しかった。

ドミトリーで同室になったオランダ人から聞かれた。
「日本に行こうと思っているのだが、物価が高いらしいね。どこで食べればよいの?」
まよわず、「牛丼屋が一番!」

「麻婆豆腐発祥の地に行くぞ。」
陳麻婆豆腐の総本店に行った。
美味しいが辛いなんてものじゃない。
3人で一人前食べられなかった。
そのうえ、次の日はピーピーだった。
(日本の陳麻婆豆腐とは比にならない辛さだった。)

「よし、本場のパンダを見るぞ。」
成都の動物園は、管理がぼろぼろで道をふさぐように木が倒れたままになったりしていた。
ショックだったのは、サル山で中国人の若い人たちがサルに対して何本ものペットボトルやらをぶつけて楽しんでいたことだ。
サルは怒っていたが、僕もマナーが悪いなあと思った。
パンダは確かにかわいかったけど。

三国志関連の見所を回りつつ、
昆明などの雲南に行くかチベットに行くかを時間的な都合で迷っていた。
チベットに行くと時間がかかり、他の行きたい地域に行けなくなるおそれがある。
それに、チベットは真夏でも夜の時間は10度を下回ると聞いていたが、防寒具を持ってきていない。

結局、「チベットに行ける機会はもう二度とない、チベットに行く!」と勘で判断した。
親にもチベットに行く予定なんて一言も言っていないが、まあ何とかなるだろう。
・・・この判断は結果として正しかった。

見せかけのツアー(片道航空券とホテルまでのバスのみ。後は全く何もなし)に参加した。
チベットはツアーでないと入れない地区なのだ。

チベットのラサ近くの空港では入国審査のようなパスポートチェック、荷物検査があった。
中国から外国に来たような気分になった。

そして、空港を一歩出るとそれは今まで感じたことのない世界が待っていた。

(1997年8月中国・チベット感動一人旅②に続く)


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1996年8月はじめての海外 in Viet Nam④ [TRIP]

1996年8月はじめての海外 in Viet Nam③からの続き。

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帰りは帰りで大変だった。

まず空港までの移動手段として、
タクシーに乗るほどのお金がない。
安かったので、空港までの送迎バイクにしてみた。

「送迎バイク」といってもなんてことはない。

ただのスクーター二人乗り。
後ろの座席から男のドライバーにしがみついて空港まで送ってもらうだけのこと。

お土産で買ったベトナム菅笠をかぶりながら、男のドライバーに必死でしがみついた。
その姿は今思い出しても情けない。

帰りの飛行機でもアホアホだった。
当時、乗換地の香港の空港はやたら狭くて30分ごとにゲートから飛行機が出ていた。

僕は、成田行きに乗るため、ちょっと早めにゲートに付いた。
何も考えずにもう乗客が並んでいたので搭乗しようとした。

すると、機械が「ブーッ!」と鳴って、切符が拒否されて出てくる。
「おかしいな。」

切符切りの人が手書きで番号を書いて無事搭乗・・・・と、思いきや。

飛行機の自分の席に他の人がなぜか座っている。
「おかしいな。」

スチュワーデス(今で言うフライトアテンダント)さんに見せると
ビジネスクラスに案内された。

「ラッキー!格安チケットなのに、ビジネスクラスで帰れるよ。」
と能天気に座席に座る。

すると、先ほどのスチュワーデスさんが僕のところに走ってきて
バンクーバーがどうとか言っている。

「ああ、これはバンクーバー行きの飛行機なんだ。」
と、ここではじめて気づく大ボケな自分。

結局、従業員用トラックで、従業員の方々に笑われながら連れ帰られた。
そのとき思ったこと。

「惜しい!もう少しでバンクーバーにビジネスクラスで行けたのに」
最後までお気楽ノー天気な自分。

こうして僕が20歳のときのはじめての海外への旅は終わった。

日本に到着したとき、周りの人に助けてもらってばかりの旅行だったが、
ちょっとばかり自信が付いた。

帰りの京成線の中で「それにしても、日本は治安が良いなあ。」としみじみ感じながら、
「もっと他の国のことを知りたい。よし、今度はもっと本格的な旅をするぞ!」
とウトウト眠りに入ってしまうのであった。

(中国・チベット編に続く。)


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1996年8月はじめての海外 in Viet Nam③ [TRIP]

1996年8月はじめての海外 in Viet Nam②からの続き。

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この日本人の方、ベテランのバックパッカーでした。

ベトナムの事情をいろいろ教えていただき、ハノイでも一緒にホテル探しをすることになった。
初心者の自分では考えられないくらい、宿屋探しもこだわる。
僕は金魚の糞のように付いて行っただけだが、10軒くらい回った。

何度も交渉してツインベッドで一日10ドルの割と良い部屋が見つかりました。
今まで自分がベトナムで泊まっていたホテルより圧倒的に安い。
それでも「もっと安い所もあると思うんだけど。」とおっしゃっていた。
「こうやって、ホテルは探すんだ」と身をもって教えていただいた。

その人は、「やった、お湯のシャワーが出る!」と喜んでいた。
(僕自身がその気持ちをわかるのは2年後のこと。)

この人からは買い物の仕方も教わった。

ベトナムの軍隊帽子を僕が土産屋さんで見ていると
「欲しいですか?」
「・・・関心はあります。」
「わかりました。」

「軽はずみなことを言ってしまった」と後悔するほどの、すごい交渉が始まってしまった。

関西弁(当然日本語)のけんか腰で
値切る。
値切る。
値切る。

あまりにすごいので、野次馬ギャラリーがどんどん集まってくる。
はじめは笑顔の余裕のあった売り子さんだが、最後は本当に泣いていた。

「この値段ならどうですか?」
「十分すぎます。」

その場の雰囲気に圧倒され、ここで買わなきゃ店の人もかわいそうだと思いながら買った。

「関西人なんですか?」
「いえ、違います。関西弁のほうが迫力あるでしょ。」

そうなのだ。
アジアでの買い物は戦いなのだ。
無理な英語より、日本語で気合むき出しで行くことの方が良いのかもしれない。
とにかく迫力負けしないということが大事。

それは旅の他の場面でも同じこと。

そうこうしているうちに、少しは間の抜けた表情が抜けたのだろうか。
最後は歩いていてもベトナム人に声をかけられなくなった。
顔も日焼けして髭ぼうぼうで
汚らしいサンダル、Tシャツ、短パンじゃね。
何ていったってお金持っていなそうだし。
そりゃそうだ。

僕がベトナム人でも声かけたくないよ。
・・・・それはそれでさみしい(笑)

そんなこんなで帰国の時が迫ってきた。

当時は、リコンファームという飛行機に乗るための事前手続きがあった。
飛行機会社の決められた連絡先に電話で確認をしなければならなかった。
簡単な会話でも、英語で電話などしたことがない。
事前に何度か練習し、覚悟を決めて公衆電話で電話をかけた。
「リコンファーム、OK?」

非常に緊張しながらも何とか帰国の事前手続きも済ました。
僕の電話に対して、現地のオペレータの人は笑っていたような。
声の震えが聞こえたのかも。
お恥ずかしい話だ(苦笑)

(続く)


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1996年8月はじめての海外 in Viet Nam② [TRIP]

1996年8月はじめての海外 in Viet Nam①からの続き。

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朝食は、近くの屋台で、フォーやおかゆを食べた。
日本の家庭の風呂にあるような、プラスチックのチャチな椅子に座って。
両方ともあっさりしていてとても美味しかった。
日本円では100円にも届かない安い金額で、この美味しさ。
これは日本でも絶対流行る味だと思った。

おかゆを作ってくれる小錦(KONISHIKI)みたいな大柄なオバちゃんは
僕が「美味しい!」というと
「アジノモト!アジノモト!」と連呼して、味の素のビンをさした。
味の素のグルタミン酸は確かにうまいけどね(苦笑)
・・・ちょっとむなしい。

ホーチミンの街は、喧噪とした迫力が圧倒的で、慣れるのに時間がかかった。
同じホテルに泊まっていて、仲良くなった30代の日本人夫婦は言っていた。
「今、ベトナムは日本の昭和30年代、40年代の雰囲気なんだそうです。
でも、エネルギーが吸い取られるような感じがして、疲れますね。」
確かに疲れます。

(ちなみに、この夫婦は同じタクシーの運転手に10ドルでこのホテルに連れて来られた。
やっぱり、ボラレタのね。
僕の方は7ドルなので、ちょっとだけ優越感。
僕の見てくれが貧乏そうなので、まけてもらっただけかな。)

街の道路は、きちんと舗装されておらず、車はあまり走っていない。
人々はスクーターと自転車でツーリングを楽しんでいる。
街はクラクションの音で満開だ。
数多くのファミリーが、スクーターに4、5人乗りでツーリングを楽しんでいた。
スクーターは、こんなにパワーがあるんだと妙に関心。

スクーターに乗っている人たちは、「どうだ!俺のバイクを見ろ!」と誇らしげ。
話を聞くと、ホンダがNo.1ブランドらしく、自分の所有しているスーパーカブを自慢していた。
ホンダじゃないバイクにもホンダのステッカーを貼ってホンダっぽく見せている。
ご愛嬌。
白のままキープするのが格好良いとのことで、自分の愛車の外装を一生懸命磨いている。

さて、帰りの飛行機は、ハノイからだから、ホーチミンから脱出して北上せねば。
ホーチミン - ハノイ(1726km)の南北線(統一鉄道)を使おう。
長い電車の旅だ。
 
苦労して、中部にある古都フエまでのチケットを買った。
当時は外国人料金があり、現地人の二倍の料金で結構高かった。
「まあ、何とかなるだろう。」とケチって二番目に安いシートの席にしてしまった。

(参考)古都フエ(wikipedia記事)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A8

駅員さんが珍しい日本人を見ようと何人も集まってくる。
近くの席の人も珍しそうな目つきだ。

駅弁がつくが、安い席の弁当のせいか、美味しくはない。
パサパサしたご飯に、干からびたお肉等。
それにミネラルウォーター。
いずれも食事の時間に配られる。

寝台車にしなかったせいもあり、夜も普通に座った体制のまま眠る。
眠りは浅いが結構眠れる。

車窓から外をぼんやり見ていると、一面にベトナムの田や畑が広がっている。
その中には水牛と菅笠をかぶった農家の人が見える。

突然、数十人もの子供が電車の方を見つめている姿が目に入ってきた。
電車の客がお菓子や食べ物をどんどん外に向かって投げている。
子供たちはそれらを拾っている。
なんだろう。これは。
なぜか、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出してしまった。

電車の中では、隣の席にいたベトナム人と片言の英語で会話をしていた。
僕の顔が締まりがなかったせいだろうか。
Be Careful.
と、忠告を受けた。
その彼がホテルを紹介してくれると言うのでフエを一緒に歩くことになった。

駅前では自転車の前に座席をつけた人力車「シクロ」の運転手が多くたもろしていた。
僕たちにしつこく声をかけてくる。
300メートルくらいずーっとついて来る。
しつこいなあ。

連れのベトナム人がベトナム語で何か発した。
すると突然、運転手激怒!

何が起こった??

連れのベトナム人が僕に向かって言った。
RUN!

何が起こったかわからないまま必死で逃げる。
そうこうしているうちに分かれ道で連れのベトナム人が泣きべそをかきながら言った。
BYE!
そう言いながら、細い橋を渡って僕を置いて行ってしまった。

「はい?BYE!って?約束は?」
しかし、ボヤっとしている場合ではない。
もう夜中の10時を回っている。
早くホテルを見つけなくては。

あわててホテルを探して大通りを徘徊。
目に入ったホテルで一番安い部屋に入った。
サイゴンビールを飲みながら、やれやれひどい目にあったと思いつつ、一服する。
まさにBe Careful.だな。

次の日は朝から古都フエの街をレンタサイクルで走り回った。

うだるような暑さだったが、風情がまだ残っており、独自の文明を感じた。
昼間からビールを飲んでのどを潤しながら、ホーチミンよりずっと落ち着いた雰囲気が気に入った。

さて、長居はしていられない。
ハノイ行きのチケットを買って、電車に乗った。
無事に生きて帰るぞ!

隣の席の人は、ひげがボーボーで色黒のアジア人だ。
お互いちょっと警戒。
「・・・もしかして、日本人ですか。」
「そうですが。」
「よかったああ!」(二人同時)
日本人と隣の席になることがこんなにうれしいことだとは思わなかった。

(続く)


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1996年8月はじめての海外 in Viet Nam① [TRIP]

今年は「変化の年」を実現すべく、まずは「今まで」を整理すべく昔の旅記録を蔵出しします。
まず、「若さ溢れる(苦笑)」はじめての海外だったベトナム9日間の旅を。(全4回)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それは1996年、大学2年の夏、初めて日本の海の外に出た。
僕はベトナムを目指した。
当時はかなりマイナーな国で日本人旅行者も少なかった。

あまのじゃくなので
周りで誰も行っていなかったこの国は魅力的に映った。
食べ物も美味しいと聞いていたし。

予定は未定。
出たとこ勝負。
ベトナムの知識ゼロ。
服装は、サンダル、Tシャツ、短パン。
荷物は小さなナップサックに入る最低限の衣服、タオル、トイレペーパーだけ。

これ以降の旅のスタイルの確立。
きわめていい加減な旅。

生まれて初めて海外行きの飛行機に乗った。
酒がタダなのがうれしくて、ついついビール、ワイン、カンパリとガンガン飲んでしまった。
得した気分になった。
完全なおのぼりさん状態。

半ば二日酔いで、ホーチミン空港に着いた。
さて、空港のバス。
・・・・昭和43年の立川バスをそのまま使っている。

レ、レトロな感じだ。
「危ないのでバスから手を出すのはやめましょう」
昭和30年代のイガグリ君の画風のような絵。
・・・・何でこんな所にあるの。

空港のソファ。
・・・・や、破れて綿が見えている。

税関の荷物チェックの人。
・・・・英語が全く話せない

そして、出口を見ると
数十人ものベトナム人がジーっと僕を見つめている。
・・・・・怖い。

「果たして生きて帰れるのか?それが問題だ」

勇気を決めて外に出る。
どんよりとして暑い。
何とも言えない匂いがする。

2秒で20人くらいのベトナム人に囲まれる。
たしか、ガイドブックには書いてあったっけ。
「声をかけてくるタクシーの運転手は白タク。
絶対乗っちゃだめ。
メータータクシー(公営)に乗ること。」
・・・そうだった。

「めーたーたくしーめーたーたくしー」

念仏のように唱えながら迫り来るベトナム人を振り切る。
100メートルくらいダッシュしただろうか。
・・・それでもしつこく付いてきたベトナム人数名。

その一人が「ノープロブレム!」(お約束)
メータータクシーの運転手だと言って証明書を見せる。
本物?
にもかかわらず、「ホーチミン市街まで7ドルでどうだ?」と言ってくる。

「おいおい、メータータクシーが何で値段交渉するん?」
まあ、いいや。

乗る(適当な自分)。
行きたいホテルの名前を言う。
すると「そこはフル(FULL)だ。他にいいホテルを知ってる。ちょっと待ってろ!」
運転手、外に抜け出し電話をしてる。

「もしかして拉致?」
「逃げ出そうかな?!」

運転手、薄気味悪いくらいニヤニヤしながら戻ってくる。
マジで逃げ出せばよかった。
・・・後悔

半ば投げやりな気持ちで車窓を見ると、
すさまじいまでのスクーターの数。
路上に溢れる人。

この人たち昼間っから何やってんの?
そして、ずっと後ろの方を向きながら英語でまくし立てる運転手。
「お願いだから前を見て運転してくれ」(祈)

少年たちの群を見てタクシーの運転手。
「あいつらはキラーだ。気をつけろ!」
・・・あんたの方が怖いよ。(心の叫び)

結局、怪しいホテルに連れ込まれた。
僕一人しかいないのに3人部屋(20畳くらいある)にされ、しっかりボラれた。
つまり、はじめから運転手とホテルがグルだったということ。

とはいえ、はじめての外国ではじめての宿泊だ。
とにもかくにもその部屋に泊まることにした。
身分不相応な広い部屋で疲れでウトウトしながら思った。

「このまま押し切られてはイカン。」

まずは、せめてもっと安い部屋にするよう交渉しよう。
ホテルの主人は「この部屋でいいじゃないか」とごり押ししたが、
つたない英語で何とかがんばり、狭い安い部屋にしてもらえた。

さて、次の日、近くの店で自転車を借り、ホーチミンの街をブラブラした。
街がなんかすごい迫力で動いている。
まだ慣れない。疲れる。

さて、ホテルに戻って、安い部屋へのお引越し。
荷物を持ち込むと、ホテルの主人の子供たちが布団を持ってズラズラと出てくる。
子供部屋で使用している部屋に泊まるらしい。
悪いことしたなあ。
そのまま、子供たちは隣にあるロビーに布団を持っていて川の字で寝る。

深夜はロビーのテレビのサッカー観戦で、子供たちが大騒ぎ。
隣にいる僕の安い部屋にも響く響く。
これでは眠れないという気持ちと
ベトナムでもサッカーは人気あるんだなあという不思議な感覚だった。
外でも遅くまでスクーターやクラクションの音が鳴り響く。
「無事に生きて帰れるかなあ」と思いつつホーチミンの夜は更けていく。

・・・続く


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